燃やせ、燃やせと
そんな風に語りかけてくる物語が送られてきた。
自分の火を燃やし続けろと、火に薪をくべろと、火を炎へ。炎の中で踊り続けるような生活は自分の中にはないと思っていたけれど、きっとそんなことはないはず。
忘れてしまいがちだけれど、私たちはどこへでもいけるのだ。身の回りを天国にでも地獄にでもできるのだ。
私が紡いだ、好きな言葉。
私たちはどこへでもいけるのだ。
少し自分と向き合おうとする時期。が今来てる気がする。気持ちの調子が悪いとき、私はこのブログは更新しがちだけれど、いいときでも書けたらいいなと思っていた。ツイッターは見る人が近すぎるから調子が悪いときに書くとどうしてもかまってほしい、心配されたいの気持ちが出てしまうから、その反動か誰も見ないこちらには書けてしまうのだ。だいたい調子が悪いときは140字なんかじゃ足りないのだ。
今まではマイナスの昇華の場だったこのブログを静かに優しい流れて長れる場所にしたいと思った。ここ最近を読み返したら恋人のことばっかり。不安になったり、昂ぶったり、わかりやすいほどにマイナスもあるし、大好きじゃーん。ってなるくらいの記事まで。そうか、人に見える場所で私は恋人のことをあまり書けないんだな。
SNSに全ての答えがある人なんてつまんないよね。昔はよく答えをSNSに求めていたな。幼かったな。
人生で初めて、遠方の友人(といっていいのか、)へ手紙を書いた。目の前で手渡したり、すぐ返事が来るようなものじゃない手紙は初めてだ。言葉を大切に紡ぐ人だから描くのが緊張した。今思い返すと文章は堅苦しすぎたような気もする。でも、せっかく手で書いたのだから、気持ちをこめました。
そしたら書いたあとどっと疲れて、魔法が使えたならばきっとこの文字に魔力を込めたんだな。って感じ。
返事は手紙で来るのか、インターネット媒体で来るのか、それとも直接会ういつの日かなのか、少し心が踊っている。小躍り。
文字を紡ぐのはこんなにも大変なことだったのか。
このブログ内にある幾らかの記事も、たしかに時間も心も消費して、昇華しているけれど、手で書くのはやはり全然違うな。
書くことは魔法を使うことなのかもしれない。
仕事を辞めるにあたって、少しだけれど有給消化があって、それなりの連休になる。この連休がどうか良いものでありますように。良いものを作り上げられるといいな。
自分の中には火種はたくさんあるけれど、ひとつひとつがチリチリと燃えているようなイメージ。大きい炎になることは少ないけれど、ただチリチリと燃え続けている。時々踊るように火が上がるけれど、長くは続かずにいつしかまた小さいチリチリに戻っていく。
そんな隣や近くで薪をくべ続けて、大きな炎を絶やさずにせっせと炎を躍らせる人がいる。そういう人は美しい。
私はそのような人を羨ましく思っている。
羨ましく思うほどに焦がれているのに、どうして自分は薪をくべないのか。
果たしてくべられるのだろうか。
火傷が怖いのか、比較が怖いのか、
きっと何か怖い。
やってみなきゃわからないことなんてとうにわかっているのに。
きっと完璧主義なところの見栄っ張りが頭出してるんだなあ。そんな頭はいらないよ。いらないよ。
どうか豊かで有意義で、素敵な生活が紡げますように。
どうにも私はジンクスやら祈りやらが好きなようす。
何かしらにつけていろんな人の幸せを願い、平穏な日々を祈っている気がする。周りの人が穏やかに豊かであれば関わる私も穏やかに豊かで平穏な日々を過ごせると思っている。
…全部が全部そうではないけれど。
会いたい人がたくさんいる。
生きて生き続けて、会って、笑って、またねって言って手を振る。そしてまた会って、笑う。
簡単なようで難しいようで、そんな尺度で測れるようなものでもないか。
書くことが好きだ。
描くことも好きだ。
塗ることも好きだ。
彫るのはすこし苦手かな。
象るのはどうだろう。
話すことは得意じゃないけれど、好き。
聞くことの方がもっと好き。
聴くのが好き。
私の最大の武器、アウトプットはどこだ。
どこがマックスにボリュームを上げられる?
称賛以外を理由にした、伝えたいことは?
私がわたしで自信を持てるのはどこだろう。
まだまだまだまだ
ちゃんと一つずつ向き合っていこう。